こんにちは、高橋歓菜です。
岡山の片田舎で生まれ育った、
純ニッポン人のわたしが、
なにがどうなって英語を話すようになって、
どうしてこんなにも一生懸命、
かつ幸せに、英語を教えているのか、
まずはしばらく、
お話にお付き合いいただけたら、と思います。
目次
- ルーツは妄想
- わたしの心をつかんで離さない言葉
- 異文化交流の楽しさを教えてくれたのは
- 新体操選手だったころ
- カナダでのわたし
- 新米講師のうぬぼれと葛藤
- 大手英語教室での苦悩
- 3兄弟の子育て
- 子どもが母語を話し始める過程
- B.B.カードとの出会い
- なぜ英語を学ぶんだろう?
わたしがカナダに行ったのは2006年。
そのためにお金を貯めました。
どうしてもどうしても英語が話せるようになりたかったのです。
高校時代、ワーカホリックの熱心な先生の塾に通っていたおかげで、随分基礎はできていました。
簡単な会話なら、まずまずの発音で交わすことができました。
でも英語に関しては完全に流暢になりたかった。
まぁ、1年間の滞在では「完全に」なんて無理な話なんですが、
飛躍的に伸びたことは間違いありません。
英語以外にも刺激的な経験はありました。
比較的治安のいい地域にいましたけれど、
20代の若い日本人女子に起こりがちな、あぶないこと・・・
いやに距離を縮めてくる男たちを、すんでのところでかわしたり、
盗難や、薬物犯罪もかなり身近にありました。
レンタカーがパンクして、大平原のど真ん中で孤立したり、
乗り継ぎの飛行機に乗り遅れたり、
馬から落ちたり、笑
ラッキーなことに、
助けてくれたり、的確なアドバイスをくれる現地の友だちがいました。
ちょっとだけ真剣な恋もしました。
それまで「新体操選手」っていう肩書に守られ、
頼って生きてきたわたしが
カナダでは、ただの「日本人女性」で、
自ら動き、自由で、
なんだってできる気がしていました。
日本では考えられないような、とんでもないことが起こっても、
受け入れ、対応し順応し、生きていくことができる、
って、思っていました。
実際に思い切って、
色いろなことに挑戦できていたかというと、
それは別の話で、後悔が残っています。
世の留学経験のある人たちが口をそろえて言うのを聞いたことがあるでしょう。
「毎日が愉快で、友だちと離れる勇気はなくて、もっと勉強すればよかった、もっと上を目指して挑戦すればよかった。」
ご想像どおり、
1年間なんて、本当に、一瞬でした。
もし今、
どこか海外に長期滞在できるのなら、
留学生の集まるシェアハウスに住み、
しょっちゅう日本食を作って喜ばれたりして、
安い車を買って、気まぐれにいろんな町を訪れ、人に話しかけ・・・
夜はお気に入りのバーに通い、面白い人を紹介してもらい、陽気におしゃべりし、
・・・でも眠いので11時には帰る。
という生活をしてみたいです。笑
それも言葉があってこそ。
ちゃんと伝わりわかりあえる、
世界共通言語である英語を、
もっともっと上手になりたいって、
今もなお思っています。