こんにちは、高橋歓菜です。
岡山の片田舎で生まれ育った、
純ニッポン人のわたしが、
なにがどうなって英語を話すようになって、
どうしてこんなにも一生懸命、
かつ幸せに、英語を教えているのか、
まずはしばらく、
お話にお付き合いいただけたら、と思います。
目次
- ルーツは妄想
- わたしの心をつかんで離さない言葉
- 異文化交流の楽しさを教えてくれたのは
- 新体操選手だったころ
- カナダでのわたし
- 新米講師のうぬぼれと葛藤
- 大手英語教室での苦悩
- 3兄弟の子育て
- 子どもが母語を話し始める過程
- B.B.カードとの出会い
- なぜ英語を学ぶんだろう?
両親は公務員。
学校の先生でした。
教育熱心であったとは思うけど、
末っ子のわたしにはだいーぶゆるゆるだったと思います。
なんでかよくわからないけど、
よく外国人がうちに遊びに来ました。
最初は白人の男の人二人組。
いつもスーツに自転車といういで立ち。
モルモン教の布教活動をしている人たちだったらしい。
因みに我が家は無宗教。
お仏壇はあったけど、神棚はなし。
父に至っては、神社やお寺へ行っても手を合わせません。
ぜ~ったいに。見たことありません。
遠くからわたしたちの写真を撮ってるだけ。
もちろんモルモン教なんて興味のない両親が、彼らと親しくしていたのは、
純粋に異文化交流がしたかった、子どもたちにも会わせたかったのだと思います。
次第に彼らは来なくなりました。
本部のお怒りに触れたらしい、
と父が言っていましたよ。
幼いわたしにも強烈な記憶を残してくれました。
初めて間近で見た、青い目。
見上げた体。
だっことかされて、はずかし怖かったこと。
一緒に回転すしを食べに行って、めっっちゃ食べてたなーとか。
小学校高学年くらいのときに、一週間うちに滞在してたのは、
インドネシアから来た留学生の女の人ネンデンさん。
可愛がってもらったなぁ。
イスラム教徒で、
断食の時間が終わったらいつも、
水をコップいっぱいクイッといってましたね。
野菜スープを作ってくれたんだけど、
当時手に入らないお国の調味料があったらしくて、
普通のコンソメスープでした。
中国からの留学生も一晩いたことがありました。
かくさん、という女の人。
明るい人で、中国語講座みたいなのを開いてくれました。
自分の名前の中国語読みとかを教えてもらって、
「発音いいですね~。」って褒めてもらったっけな。
こうして思い出してみると、
わたしが異文化理解や多言語に興味をもつのには
十分すぎる理由があったように思います。
両親よ、
むかし蒔いた種は、たしかに芽を出しているよ。
そして今では、
お友だちと一緒に週に一回、わたしのレッスンを受けているだなんて!
あんたたちも好きだねぇ。。。